「子供の頃 PART 1」  L 小田勝弘
           

             

私は昭和17年7月6日に杉並区宿町(現在の桃井3丁目)で産声をあげた。もうすぐ63歳を迎える。
諸先輩方々からみれば、まだまだ洟垂れ小僧の私である。生まれた頃は戦争の真最中であり、教師をしていた母に家族と共に連れられ学童疎開先である宮城県登米郡へ行き、そこで終戦を迎えたとの事である。
 この辺までの出来事は私の記憶にはない。4歳くらいだっただろうか、うろ覚えではあるが杉並区今川町(現在の今川3丁目)の200〜300坪位の敷地に移って来ていた。
 父はインドネシアのジャワ島そしてビルマと転戦したがビルマではイギリス軍に捕まり捕虜となってしまったそうである。生死を共にした戦友は殆どが帰らぬ人となってしまったと聞いている。
 私には2歳年上の兄がいるが、その兄と毎日のように棒切れを持って「戦争ごっこ」をして遊んでいた。庭の空き地には柿ノ木、栗の木、麦、菜っ葉類、大根、里芋、薩摩芋、砂糖黍、とうもろこし、豆類等、庭ではなく、殆どが畑に変わっていた記憶がある。
 そして遊んでいる時でも道路に牛や馬の糞が落ちていると、喜んで家に持ち帰ったものである。畑の肥やしである。鶏や兎を飼っており餌や水をあげたり卵を採ったり小屋を毎日のように掃除していた。
 そして時々それらの動物が我が家の食卓に肉となって並ぶ事があったが、幼い私はそれを見て泣いていたのを思い出す。そして庭の中には高射砲が一台あり、ブルブル回して遊んだ記憶がある。親達の話では実際に日本軍が連合軍のB29をめがけて発射したが、B29は弾丸の遥か上の方を飛んでいったそうである。
 父は戦死したと言われていたそうであるが母は生きていると信じ、時々何処かに調べに行っていたそうである。まるで岸壁の母である。ある日、兄達と「戦争ごっこ」をしていると兄が突然「お父さん!」と大声で叫びながら駆け出していった。私は、びっくりしてその様子を見ていた。
 兄の先方には一人の兵隊の姿があった。その兵隊は兄をしっかりと抱き締めて二人とも泣いていた。父だったのである。私は物心ついてから父には会った事が無かったので父の事は知らなかったが兄は父の事を覚えていたのである。2歳の差は非常に大きかった。
 それから暫くして阿佐ヶ谷1丁目(現在の阿佐ヶ谷南1丁目)、杉並区役所の道路を挟んだ東側に引っ越した。
 その頃は未だ、戦争中に疎開で空き家になった家屋の強制取壊だったと思うが広い空き地が多く、区役所には「東京都杉並区役所」と看板に書かれていた。青梅街道には新宿から荻窪の南まで都電が走り、その街道には薪を牽いた牛馬も時々、歩いていた。
 一昨年に立川ライオンズクラブを退会された常深隆さんも300メートル位、新宿寄りに同じ頃住んでいたそうでクラブの中で時々その頃の話に花が咲いたものである。
 そして私がLCに入会した頃、伊勢丹の斉藤さんが入会したが、その人は常深隆さんの学習塾の先生だったそうで、世間は狭いものである。